抜毛は儀式なのか、依存からくるために意志が弱いと捉えるのか


今日はなんとなくダークサイドタロー。
仕事やプライベートや、変化が多く、心に落ち着きがない。
言葉尻が暗いが御免あそばせ。


強迫性障害からの脱出

強迫性障害からの脱出


強迫性障害からの脱出にも書かれているが、

強迫行為は”儀式”化していることが多いという。



抜毛症に対する認知行動療法 : ブログ
CBT CENTERさんより
06/10: 抜毛症に対する認知行動療法


”儀式”について、上記ページに書いてくださっていることは非常に参考になる。

(一部抜粋:勝手にすみません、問題あればすぐ消します)

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抜毛と意志の弱さは関係がありません。
抜毛行動は「儀式化された行動」とみなすことが出来ます。
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抜毛は儀式なので、どの場所で、どの時間帯に、何を準備して、左右どちらの手で、どの部分を、どう引っ張って、抜いたあとどうして、その後・・・・という一連の流れがある。
以前にカウンセリングした方は、幸い儀式に準備物が必要だったので、その準備物を手の届かないところに移すことで、かなり改善した。どの部分でも変えられそうな所で、かつ儀式が立ち行かなくなるような所を改善することで、シンプルな効果が得られる場合がある。

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(詳しくはCBT CENTERさんのページで見てみてください)



抜毛系の掲示板などを見ていると必ず毛抜きを使っている人もいる。



だけど、私の場合は道具も無く、色々な体制で、色々な時間に抜くので、”儀式”という言葉はイマイチしっくりこない。

ただ、先日の日記でも書いた通り、

たしかに抜きやすい体制や状況っていうのはある。




今日みたいに、心がそわそわ悶々、焦燥感に囚われている時は、強く「一人になりたい」と思うんだが

そんな時一人になって、ボーっとしていると必ず抜いている。



だもんで、今日の夜はかなり危険だ。

幸い、予定が入っているからひどく抜くことは避けられそうだが、

こんな日が続くといつの間にかまたカッパのお皿が広くなる。




となると、心が落ち着かないがために → 気持ちいい行為【抜毛】をする → 依存




とも捉えられる気がする。



依存がために抜く → 意志が弱いからだ



となる気がしてくる。




気が滅入ると儀式を行うとすれば、気が滅入らないようにしなければならない。

生活をしていてそれを100%避けるのは絶対に無理だし、現実的じゃない。

ということは、やっぱり”儀式”をできない環境にしなきゃいけないが、

それがいつでもどこでもできてしまう素手だとなかなか防げない。

ではやっぱりメンタル面を見直す?





ループ





でも、最近ひとつ確実に見つけたのは、『家と会社以外の慣れない環境だと抜きにくい』ということ。

なぜならバレたら恥ずかしいから。

当たり前のようだけど、再確認するとなるほどと思えた。



常に慣れない環境に身を置くなんて難しいし、ストレス半端無さそうだけど...









今のところの結論は
「まずは行動」なの、かもしれない








が、すぐに実行できたり、答えが出てたら15年も抜毛してないってね。





まだまだ
ふぁいふぁい。